いつか

放送中のアニメ「平家物語」の第二話で、びわの母親の行方について徳子、祇王びわが話しているワンシーンの、びわ祇王のやりとり。祇王が(母親に)「いつか、きっと会えるわよ」と言うと、びわはこう言った。

 

「『いつか』というのはいい言葉だの。明日、明後日。先のことが少し楽しみになるのう」

てっきり「先」が見えるびわは否定的な反応を示すと思っていたので、この言葉をきいて結構驚いた。だけど考えてみれば当たり前のことだ。子供の頃はいつも明日が楽しみだった。その当たり前が、びわにも当てはまっていたことになんだかホッとした。

 

「スピカ」という短編集の中で、羽海野チカがこの「いつか」という言葉に触れていた。

「いつか」…なんてくるおしい響きでしょう。永遠かと思うくらい果てしなく横たわる時間のその重さ 仄暗さ…

私は「いつか」という言葉は「行けたら行く」みたいなもので、ほとんど「もう二度と」という意味だと思っていた。もしかしたら祇王も心のどこかにそういう思いを持ちながらも、希望を込めてこの言葉を使ったのかもしれない。

 

これが大人と子供の分かれ目の一つなのだろうなと思う。「いつか」が来なくなったとき。それに気づいたとき。あと、自分も誰かに「いつか」と言い始めたとき。

 

びわは先が見えるからこそ、それがどんなに暗く恐ろしくても、常に先があるものだと認識しているのかもしれない。そしてびわにとって「いつか」という言葉は、重盛にとっての灯籠のようなものなのかも。

 

恋せぬふたり①②

またNHKで面白いドラマをやっている。

 

高橋一生岸井ゆきのがダブル主演を務める「恋せぬふたり」。

他者に恋愛感情も性的感情も抱かないアロマンティック・アセクシュアルの男女が共に暮らすという話だ。

 

現時点で2話まで放送しているが、すでに手元のわかる!ボタンは塵と化している。

 

とはいえ自分自身はヘテロだし、アロマンティック、アセクシュアル、アロマンティック・アセクシュアルというセクシュアリティについてもドラマで語られる以上の知識はない。ただドラマの中の二人が社会生活の中で感じている居心地の悪さや閉塞感には激しく共感した。

 

主人公の咲子(さくこ)はいわゆる「普通の幸せ」を絵に描いたような家庭で育った。父親は会社員、母親は専業主婦、そして妹はすでに母となり次の「普通の幸せ」を築こうとしている。

咲子の家族にとって恋をすること、結婚して子供を育てることは当たり前のことで、未だ浮いた話一つ持ってこない長女は家族の中で浮いていた。

「誰か紹介してもらったらいいじゃん」

「もういい歳だし」

「今は仕事が楽しいんだろう」

家族は口々に言う。しかし咲子は首を傾げて曖昧に微笑むことしかできない。

咲子の世界には恋というものが存在していないのだった。

 

職場や家庭などで感じる周囲とのずれにモヤモヤする日々の中で、咲子は偶然見つけたブログでアロマンティック・アセクシュアルという言葉を知り、初めて自認する。そしてそのブログの主が取引先のスーパーで働く高橋さんだと気づき、やや強引な話し合いの末共に暮らすことになる。

 

1話のわかるボタン連打ポイント:

・『一人が好きなんですね』と言われる。

  僕はそうじゃないから困ってる。

・「恋愛しないってことは多分、一人で生きていかなきゃいけないってことじゃないですか」

わかる、と思うと同時にそんなことあってたまるか、とも思った。

人間同士を結びつけるのは恋愛感情だけではないし、人間以外にも共に生きてくれる存在はいくらでもいる。友達、次元を超えたパートナー、ご近所さん、猫。なんでもいい。

とはいえども、人を恋しいと思う気持ちは確かにある。痛いほどに。

だから二つ目の前咲子の台詞に対する高橋さんの返答はとても救われるものだった。

 

2話のわかるボタン連打ポイント:

「なんでそんな失礼なことばっかり言えるの?」

二人が恋人のフリをして咲子の実家で家族と食事をすることになった折、妹夫婦の無神経な発言の数々と純粋に娘の「幸せ」を喜ぶ母の親心についに耐えられなくなり咲子が思いの丈をぶちまける場面。

この咲子の台詞がなぜかとてもしっくりきた。確かに、理解がないとか無神経とか以前に、彼らの態度はただただ失礼だった。

 

「なら、納得も理解もしなくていいんじゃないですかね」「ただ、なんでこういう時って、こういう人間もいる、こういうこともある、って話終わらないんですかね」

ここ。わかるボタンが蒸発した瞬間。これ以上に完璧な回答あるだろうか。言いたいことを全て言ってくれた。

 

咲子が感情を溢れさせている間、義弟は気まずそうにへらへら笑い、妹は迷惑そうに俯き、母は娘の言葉が理解できずに取り乱していた。その中でただ一人だけ、じっと黙って聞いている父親の姿があった。

「無理に、無理に恋だの結婚だのしなくていい。お前が何者でも、俺の娘には変わりない。」

おお。

「とにかく、うちに帰ってこい」

ああ。

 

 

想像力の欠如は暴力になりうる。

 

頭の中が大阪弁

先日、昨年末に発売された一穂ミチの「パラソルでパラシュート」という本を読み終えた。

大阪の崖っぷちアラサー受付嬢がたまたま売れない芸人と出会い、そいつとそいつの相方、そして一緒に住んでいる芸人仲間達と交流していくうちに随分と見える景色が変わっていた、みたいな話だ。

こう書くと面白くなさそうだが、実際はちゃんと面白い。ファニーであって、インテレスティングでもある。

 

ところが読後の余韻に浸っているとき、なんとなく本に挟まっていた小冊子に書いてあるあらすじを見たら目の前が真っ赤になった。そこに「恋愛小説」と書いてあったからだ。

別に恋愛小説に恨みがあるわけじゃない。ただとにかくこれは違うと思ったのだ。宣伝文句とはいえ、なんて雑な目線なんだと腹が立った。

 

このままではせっかくの読後感も不味くなってしまうのでとりあえずここは一度冷静になるためにも、ファニーでインテレスティングなところをいくつか書き出してみる。

 

まず話の伏線というのか、の張り方が心地よかった。ああそういえばこれはあの時言ってたな、というのが出てくる度にまるで自分の経験を思い出すかのように記憶の中のそのシーンに立ち戻らされる。そうして自然と作中の時間に巻き込まれていって、気づいたらギラついた大阪の町に立っているのだ。

そして登場人物たちによるコントや漫才が普通に面白い。主人公が最初に出会った芸人はコンビでやっていて、その二人のコントがすごくいい。ラーメンズの「銀河鉄道の夜のような夜」のような感じだ。しっかり笑い所がありながらもどこか切なくて、ほのかに喪失感を残すあの感じ。

それから言い回し。基本的に主人公以外の全員が皆コテコテの大阪弁を話す。不思議なことに、自分が大阪弁を話せるわけではないのになぜか脳内の耳には大阪弁として入ってくる。おかげで頭の中に大阪弁フィルターができてしまい、頭の中で喋ること全てが我流のエセ大阪弁に変換されてしまっている。ほんまかなわんわ。

あと主人公がグラスに入った氷をなめる時の「かろかろ」という音の表現。絶妙。あれは確かにころころでもからんからんでもなく、かろかろだ。

 

この本を読んでいて一度だけ涙がぽろっと溢れた瞬間がある。主人公の先輩受付嬢である浅田さんという人物のこの言葉を聞いた時だ。(※ここからネタバレ注意やで↓

 

 

「わたしは、わたしを救ってくれるものを守れたらほかはどうでもいい。(中略)現実を見てるからこそ、非現実を愛してんのに。『現実逃避すんな』って、逃がしてくれへんくせに。わたしにとってこれは、現実と向き合うために必要な武器」

 

この言葉を聞いたとき、思わずページに顔をうずめて「ありがとう」とつぶやいた。

空想に生かされてきた身としてこんなに嬉しい言葉はないと思った。今まで抱えていた形のないどろどろした痛みのかたまりを両手でそっとすくいあげて、成形して、鍛えて、武器にまでしてくれた。なんて手厚い言葉だろう。

そしてこの台詞を言った浅田さんという女性、バチクソかっこいいのだ。浅田さんだけではない、この話に登場する女性たちはみんなはちゃめちゃにかっこいい。それがこの小説の一番好きなところかもしれない。

 

「恋愛小説」という言葉が引っかかった理由もこの辺りにあるのだと思う。

「恋愛小説」というとどうしても男女が恋をしてくっつくあるいはくっつかないのふた通りの結末しか用意されていなくて、さらにくっつくルートの先には必ず結婚というゴールテープが張られているような印象があってなんとなく苦手だった。この感覚を主人公は作中のモノローグで言葉にしてくれている。

でも、目の前の道が「仕事」「結婚」の二択で語られるのは何かが違う。

「恋愛小説」という言葉によって主人公も違和感をおぼえている目線であのかっこいい女性たちが語られているようで悲しかった。絶望感すらあったかもしれない。やっぱり、そのルートから外れたものはそのまま出しても売れないから、ちゃんと正規ルート入ってますよと示すために「恋愛小説」という言葉で包まなければいけないのかと。どこにも落ち着かない想いもあるのに。「パラソルでパラシュート」にもそんな着地点のない想いがいくつも出てきて、それが誰かを救い続けていたのに。

そこで気づいた。

あのあらすじを書いた編集部は、そういう想いをごく自然に恋愛だと捉えているからこそ「恋愛小説」という言葉を使ったのではないか。着地点のない、いわば生産性のない想いも恋愛だと。恋愛を描いた小説だから、「恋愛小説」と言っただけなんじゃ。

私ははちゃめちゃにかっこいい女性ではなかった。偏見を持って、雑な目線でものを見ていた。もう怒る理由はない。

 

はちゃめちゃにかっこいい女性たちの中で、一人毛色の違う人物が終盤に登場する。彼女のことも結構好きだし、彼女の生き方にはある種の美しさがあると思った。だけど彼女のようには生きられないとも思った。彼女について主人公が語る場面がある。

 

ひょっとしたら本当の気持ちなんて彼女自身にもわからないのかもしれない。吐き出す場や尊重してくれる相手がいないと、自分の頭で何かを考えても無駄だとやめてしまう。

 

その通りだと思った。身に覚えがありすぎて震えた。だからブログを書くことにした。

ひとつよしなに。